御祭神
事代主大神
天照皇大神
八幡大神
由緒
社伝に依れば永久元年11月20日、当地開発最初の地に大神を勧請し氏神と崇め奉りもの、これ当社の起源なり。天文2年兵火に罹り小祠を建て奉祀せしが、元亀元年三好山城守社殿を造営し厚く崇敬せられる。
境内
当地開発最初からの地に現在もあるが、往時は巨樹鬱蒼たる森林にして紫藤之に交わり、付近一帯を野田藤と称し、難波名所の一としてその名遠近に聞ゆ。
境内末社
境内に末社が三社あります。本社に向かって右側にあるのが熊野神社、表の鳥居を入って左側の奥に赤い鳥居のあるのが稲荷神社、そしてその隣にあるのが金刀比羅神社であります。末社の御祭神については次の通り伝えられています。
熊 野(くまの)社
伊弉冉大神
稲 荷(いなり)社
宇賀之御魂大神
少彦名大神
船玉大神
金刀比羅(ことひら)社
大物主大神
所伝は以上の通りですが、実際の信仰としては、クマノさん、オイナリさん、コンピラさんとして親しまれてきました。これらはいずれも、全国的に著名な神社の祭神でありまして、近世にはそのような著名な神社の信仰が、ひろく一般庶民の間に普及したのであります。人々は神々を機能的に解釈し、この神様を拝めばこういう御利益がある、あの神様はこんな願いを聞いて下さる、というふうに考えました。
即ち、クマノさんとは、紀州の熊野三山の神でして、この紀州熊野は古代から、山岳重畳する奥深い霊地として神聖視されてきたのですが、近世には諸願成就の神として崇められ、「お伊勢七たび熊野へ三度」などと言われてきました。
また、オイナリさんとは、京都伏見の稲荷大社に祭られている神様であることは申すまでもないでしょう。この神はまた伊勢の外宮の御祭神でもあります。もともとは、五穀以下すべての食物と蚕桑などを掌る神でありましたが、商工業の発達とともに、ひろく産業興隆の神、町人に繁栄をもたらす神として庶民に信仰されてきました。
次にコンピラさんとは讃岐の金刀比羅宮の御祭神でありまして、海上守護、漁業守護の神、さらには福徳開運の神として知られています。
野田の地に住んでいた人々の中にも、このような全国的に著名な神々を特に信仰する人たちがあって、年代は分かりませんが、いつかこの社の境内に、これらの神々を祀りはじめた、というのが、これら末社の起源であろうと思われます。
1.神社の歴史
神社の起源
当神社がいつごろ創建されたかということは、古い記録が残っていないので明らかではありませんが、これを推定する一つの手がかりがあるのです。それは神社に保存されている御影石の建石で、それには表面に「ゑみすのみや」と刻まれ、側面に「永久三乙未年三月」と刻まれています。永久三年というのは平安朝の末期、西紀1115年ですから今から900余年前になります。建石そのものはその時代のものではなく、遥かに後世につくられたものですが、それにしても、ここに刻まれている永久三年という年が、全く無意味なものとは考えられません。恐らく神社にとって何かたいせつな年、記念すべき年であったに違いないでしょう。あるいはこれが神社創建の年として人々の間に伝えられていたのを後世の人がこの建石に刻んだのかもしれません。あるいは神社の創建はもっと古くて、この年に神社に何か大きなできごとがあって、この年が永く記憶されたのかもしれません。(由緒では 永久元年とされています。)
一方、平安時代のこのあたりの土地の様子を考えてみますと、そのころは大阪湾が今よりもずっと奥深くはいり込んでいて、その中にいわゆる難波八十島(なにわやそじま)が点在していたといわれています。その多くの島々が淀川の堆積作用によってだんだん連続するようになり全体が陸地に化していく。そういう状態でありました。したがってこのあたりは平安時代の末頃から開発され始めたと考えても決して不自然ではありません。かれこれ考え合わせますと、どうやら神社の起源は野田の土地の開発と密接に関係しているようです。 ところでここに「エビス様」がお祀りされているのはどういうわけでしょうか。元来「エビスの大神」は古くから漁業の神として、漁民たちが信仰していた神様でありました。エビス様といえば右手に釣竿を持ち、左手に大きな鯛をかかえたお姿を思い浮かべられるでしょう。もちろんこのような御神像ができるのはずっと後のことですが、漁民との深いつながりは古くからあったのです。このことを考えますと、当初この地を開発したのは漁業を営む人々であったと推定できます。今から900年以上の昔、初めて野田の地に住みついた漁民の一団が、自分たちの信仰するエビスの大神をお祀りした、これが当神社の起源であるということになります。
野田城と神社
その後、土地も開けて半農半漁となり、さらに農業を主とする生活に移っても、野田の地に住む人々は、先祖の祀ったエビスの大神を氏神として平和な生活を続けたことでしょう。ところがこの平和な土地にも、織田信長が大阪方面に勢力を伸ばそうとしたころから戦雲がたなびいて来ました。すなわち四国の豪族三好氏は信長の勢力伸長を喜ばず、これに真向から対抗して大阪に進出し、その一つの拠点として、元亀元年(1570年)野田の地に城を築きました。城ノ内とか弓場町とかいう地名が明治の始めまで残っていたところを見ても、この築城が人々の生活に大きな影響を与えていたことが想像されます。そのころ当神社は野田城の守護神として武士たちの信仰の対象となっていたとも考えられます
福の神の信仰
血腥い戦乱の時代が過ぎて、再び平和がよみがえった江戸時代は、大阪が商業の町として栄えた時代です。野田村は市の中心から遠く離れていましたが、エビス様は福の神として商人たちの信仰を集めるようになりました。本来漁業の神ということは、人間生活に最も必要な食物の神であるという意味において、福の神といえるのでありますが、貨幣の流通が盛んとなるに及んで、転じて財福を授ける神となり、商人を始めとして広く一般に福の神として信仰されるようになりました。
郷土と氏神
このように当神社は十日戎に象徴される福の神としては、地域性にこだわらない広い信仰を集めていますが、本来は初めに述べましたように野田の氏神として、何百年という長い間、この地に生まれ、育ち、居をかまえた数限りない人々の心のふるさとであったのです。玉川、野田、吉野、大開、新家、この五つの連合町会にほぼ相当する地域が、野田または西野田という名称で呼ばれていたことは、今はもう知らない人も多くあるでしょう。しかし土地の呼び名は変わっても、ここには昔から引継がれた郷土意識が存在します。そしてそれをしっかりとつなぎとめているのが氏神恵美須神社であります。
2.御祭神と人々の信仰
恵美須大神
当神社の御祭神は、役所の関係では、事代主(ことしろぬし)の大神、天照皇(あまてらすすめ)大神、及び八幡(やはた)大神の三柱となっています。
明治の始め、全国の神社を国家が管理するにあたって、政府は各神社に対して神社明細帳というものを提出させました。神社明細帳というのは、社名、祭神をはじめ、建物、境内等、神社に関する諸々の事項を記載し、中央政府と地方庁に備えつけておく重要な公簿でありました。その公簿に当神社の主たる祭神として、事代主大神の御名が明記されているのであります。
しかしながら、当神社は何百年の昔から現代に至るまで、専ら、えびすの大神を祀るお社として人々の信仰を集めてきました。今でも「えびす様」ということは知っていても、「事代主」という御名前は知らぬ人が多いでしょう。それでよいのであります。
ではどうして「事代主」というようなお名前がでてくるのでしょうか。古事記、日本書紀という日本の古典に載っている神話によると、事代主命というのは、大国主命の御子でありまして、天孫降臨にさいして高天原から使いが来たとき、国を譲ることを承諾なされた神とされているのですが、ちょうどそのときに、出雲の美穂ノ崎で釣りをしておられたと伝えられています。この釣りということが、海の神、漁業の神である「えびす様」と結びついたものと考えられます。
明治のころは、古事記や日本書紀というような古典に載っている神様を祀ったものでないと正式の神社とは認められませんでした。えびす様ということでは、神社の祭神としては認められなかったのです。そのようなことは他にもたくさん例がありました。そこでみな、何とかして少しでも関係のありそうな神を、古典の中から探してそれと結びつけることをしたのです。えびす様は他に、蛭児(ひるこ)命と結び付けた例もありますが、当神社では事代主命と解釈したのであります。事代主命は古典神話の上では、他に色々の働きをされていますが、それらは当神社の信仰とは関係ありません。事代主命をもちだしたのは上記のような事情によるものですから、私どもとしては、えびす様で結構でありまして、他に解釈する必要はない。野田の氏神であり、漁業の神、転じて商業の神、福の神である恵美須大神として信仰すべきでありましょう。それが神社の歴史からみて、最も素直な姿であり、最も自然な姿であると思います。
相殿の神
この恵美須大神は、本殿の中央にお祀りしておりまして、その左右にもうニ柱の神様を祀っています。これを相殿と申します。即ち向かって右が天照皇大神、左が八幡大神であります。天照皇大神はいうまでもなく皇室の御祖先、伊勢の内宮の御祭神であり、八幡大神は京都の石清水八幡宮に祀られている神様、いわゆる八幡さまであります。
3.恒例の御祭儀と日常の参拝
宝の市大祭(十日えびす)1月9日、10日11日
当神社では 十日戎を 宝之市大祭と称し古くからの伝統あるお祭りで、既に明治以前に、氏子外からも多数の参詣者があったことが知られています。今もこの三が日に新しい年の幸運を神様に祈願し、幸運の象徴である吉兆を授かろうと、多数の人々が神社に参詣されます。吉兆は「きっちょう」とよむのですが、なまって「きっきょう」という言い方もかなり広まっているようです。また小宝ともいい、小判、大福帳、桝(ます)、箕(み)、鯛、烏帽子(えぼし)、熨斗(のし)などを小さな形にして束ねたもので、神社ではこの小宝と福俵、大判、宝袋などを笹に付けて、求める人に授けます。十日の本祭を中心として、九日を宵戎、十一日を残り福などと称していますが、ともかくこの三が日は、一年中で最も参詣者の多い、賑やかな日であります。
トンド行事 1月15日
毎年小正月に、神への感謝の気持ちと、その年の豊作、無病息災を祈願して行う「とんど」行事は、「左義長」・「どんと」・「さいと焼き」等とよばれており、正月飾りを焼き、その火にあたると病気をせず健康で暮らせるといわれています。
節分祭 2月3日または4日
節分とは節の分かれ目です。節とは季節のことで、春夏秋冬とみてもよろしいが、太陰暦では一年を二十四節に分けています。そうすると節分は一年に二十四回あることになりますが、その中で大寒から立春に移るときの節分が最も重要視され、ふつう節分といえばこの日を指すことになったのです。この日には家々でも豆をもって悪鬼を払うという行事が昔から行われていますが、それとともに、年齢の数(あるいは年齢に一を足した数)の豆を氏神様に供え、自分も食べるという習慣があり、神社にはそうした参詣者が多数見えます。神社では悪疾退散、招福の節分祭の祭典を斎行します。
夏祭り 7月19日、20日
もともとは、夏季に起こりやすい流行病を退散させる意味のお祭りであったのでしょう。戦前には渡御式、俗にお渡りといわれる神事がありました。これは神様を奉戴した鳳輦(ほうれん)、神輿を中心として、先導の太鼓以下長い行列を整えて新家の御旅所に赴き、そこで祭典を斎行した後、再び行列をして本社に還る、という儀式でした。諸般の事情で今はこの通りのことはできませんが、そのかわり太鼓、地車、および鯛鉾が氏子区域を巡行しております。
秋祭り 10月9日、10日
これは本来、稲の収穫を感謝する祭であります。十日には、神社としては一年中で最も重い厳粛な祭典が斎行されます。
御火焚祭(おひたきさい)12月10日
火災を免れされて頂くよう、お祈りする祭であります。宮司が祝詞を奏上しているとき、そのうしろで祭員が、砂の入ったすり鉢の中で火を燃やします。そして祝詞の言葉に合わせて、瓢箪から水を掛け、青菜で押さえ、最後に土をかぶせて火を消します。実に神秘的な行事であります。
献湯神事 元旦をはじめ、毎月1日
社殿の前庭に釜を設置し、薪で湯を沸かします。その前で神巫女(みこ)がお神楽を舞い、清めたお湯を神前に供え、その後両手に笹を持って釜の湯を何回も左右上方に大きく撒き上げます。これはもともとは、神懸かりして託宣するという意味があったようですが、今は穢れを払い清める意味と解しています。
当神社では、献湯を申し込まれた方の芳名を、毎回宮司が祝詞ともに奏上した後、この神事を行なうこととしています。
元旦は 午前7時30分から、その他の月は 午前7時から 催行します。
神社では、他にもその時々の祭典を斎行しております。
日常の参詣
一年中で最も参詣者の多いのは、上記に述べたいわゆる十日えびすの三日間、夏祭の二日間、それと正月三が日です。しかし平日も、少数ながら早朝から参詣者が絶えません。
平日の参詣の中に初宮詣があります。初宮詣とは言うまでもなく、こどもが生まれて初めて氏神にお参りすることですが、昔は、男児は生誕後三十日目、女児は同じく三十一日目に行い、そのとき赤子の額に、男児なら大の字を、女児なら小の字を紅で書く風習がありました。今も額に大や小の字を書いて来られる方はかなり多く見られます。しかし日取りについては、厳密に上記の日数を守っておられる方もありますが、多くは一か月後の適当の日を選んでおられるようです。
次に十一月には、七五三詣が多く見られます。これは、男女三才の髪置(かみおき)、男児五才の袴着(はかまぎ)、女児七才の紐解(ひもとき)ということで、男児は三才と五才、女児は三才と七才が標準のようになっていますが、古くは必ずしもこの年齢に固定したものではなかったようです。また男女とも三回のお祝いをする風習もあります。要するにこどもの成長の節目節目を祝うとともに、氏神に詣でて無事息災をお祈りする行事であります。毎年十一月十五日を中心としてその前後には、男女を問わず多数の子供さんのお参りがあります。
その他、厄除、安産、交通安全等諸々の御祈願、また還暦や喜寿のお祝いなど、いろいろな趣旨での御参詣があります。神社では随時それらの受付をいたしております。
御社と御神域
現在の御社殿
御社殿は本殿(神様をお祀りしてある御殿)、弊殿(へいでん:本殿と拝殿との中間にあって御祈祷などするところ)および拝殿(全面にある参拝のための建物)の連続する三棟から成り立っています。そのうちの古い部分は、弊殿と拝殿で、これは明治33年の建築であります。その後幾度か屋根替えや灰汁洗いを行い、また修理も施していますが、建物の本体はその時のものであります。古いところは記録が残っていないので、明らかでありませんが、明治になって13年と33年と二回、大営繕が行われています。そのうち後者即ち明治33年のときに、やや規模を拡張し、ほぼ今日の姿が出来上がったものと考えられます。但し、屋根は本殿が檜皮葺、幣殿と拝殿が瓦葺でありました。次に本殿ですが、本殿が今日の姿になったのは、室戸台風を契機とする昭和10年の改築によってであります。このとき屋根を桧皮葺から銅葺に替えたことを始め、内部の構造をも大巾に改造し、面目を一新しました。ただし、木材の一部は旧のものを使っており、その中には明治13年当時のものもありますので、使用資材から見れば、その部分が最も古いということになります。
その後、後述するように、境内の拡張があり、昭和29年に現在の位置に移築されたのであります。
現在の境内の成立
現在、本社の境内は約960坪(3189平方米)あります。しかしこれだけの広さになったのは昭和17年で、それまでは600坪弱しかなく、常々狭隘をかこっていました。ところが昭和15年、この年は皇紀2600年ということで、全国的に慶祝の機運が漲った年でありますが、神社ではこれを記念して、念願の神域拡張を行おうということになりました。神社の裏側は大阪市の小公園に隣接していましたので、何とかしてこれを買収すべく市に交渉しましたところ、幸にして市の承諾を得ることができました。そこで早速、氏子の有志によって神域拡張奉賛会が組織され、その熱意と努力によって必要な資金が調達され、ここに多年の宿願が成就したのであります。
神社では、この歴史的大事業を永久に語り継ぐため、境内の一隅に築山を設け、そこに神域拡張記念碑を建設しました。本殿の裏、石玉垣の中に厳然と立っている大自然石がそれであります。裏面には 総代名、並びに高額 寄付者が銘記されています。その中に 松下幸之助「松下電気産業株式会社」現(パナソニック株式会社)創立者」のお名前が刻まれていますが、松下幸之助氏は 当神社の氏子総代を大正13年から大正15年並びに昭和3年から昭和4年の延べ5年間勤められました。この時に恵美須大神のご神徳を感じられ、会社の重要な行事である経営方針発表会を宝之市大祭(十日戎)の良き日1月10日に毎年実施され、現在も受け継がれています。
御旅所
旧地名では、新家西乃町にあたり、新家の御旅所と呼称されています。昭和12年まで実施されてきた渡御式(御渡り)は太鼓を先導に、猿田彦、獅子舞、祭主馬車、御神輿、ご鳳輦、鯛鉾、地車の順に隊をなし、ここ新家の御旅所に集結、祭典が執り行われました。大正15年の御渡りでは総勢900名に達し、以降同規模の渡御が行われました。御旅所の敷地は、116.09坪の広さがありましたが、昭和38年の大阪市の換地処分により86.18坪に減じられました。
今日、渡御式は中止し、その名残を受け継いで、7月20日には3つの山車が順次御旅所に集結し、午後には新家の代表者をお招きして祭典が催行されます。
野田藤と藤の棚
本殿の裏側、門の近くに藤の棚があります。僅か二株の藤ですが、これには長い歴史が担われているのです。野田の地は古くから藤の花で有名でありました。足利義詮が難波(大阪)の名所を訪ねた際、野田の地に船を着けて藤の花を賞翫したと伝えられていますが、これは貞治三年、今から600以上も前のことです。そのころ既に有名だったというのですから、ともかく古い話です。その後豊臣秀吉が来たこともあって、江戸時代には、野田の藤は、吉野の桜、高尾の紅葉と並び称せられていました。 それほどの藤でしたが、市街化が進んできたためか、枯死が多く、昔の面影はすっかりなくなりました。しかしこの藤は、植物学の上から見ても、その道の権威、牧野富太郎博士が特に学名ノダフジと命名されたほどの重要な品種であります。これほどのものが万一絶滅するようなことになれば、それこそ先祖に対しても、また子孫に対しても申し訳ない、と言ってここに立ち上がられたのが福島ライオンズクラブであります。時に昭和45年。同クラブでは僅かに残った株を専門家に託して、ノダフジの保存に努力を傾注され、その成果の一部を神社に寄贈されました。2009年からは 専門家の支援を求め美しい藤の花が咲くよう育成中です。